あれ?
と、思われた方、ごもっともです。
昨年の9月に、終了したはずの、このブログ・・・
ごめんなさい。
今回はどうしても書きたいこと、伝えたいことがありまして、
こうして、もう一度だけ、書かせていただきます。
終えているはずの日記なので、訪れる方も少ないかとは思いますが、
それでも、ふとした時に、気がついて読んでいただければ幸いです☆
皆さ〜ん!お元気でしたか??
杉山恵です☆☆
・・・なんて、挨拶もしちゃってみたりなんかして・・・
というわけで、本題です。
4月27日に、父が亡くなりました。
食道癌で、54歳という若さで、この世を去りました。
昨年の、このブログを終える頃、
喉のつまりが気になっていた父親が、
近所の病院に行き、始めは風邪だと、診断され、
不調が続くため、医療センターに移り、
約1ヶ月の検査の結果でた答えが、食道癌。
ここでは診れないと言われ、医大に移り、入院してすぐに、
余命3ヶ月と診断されました。
もちろん、その場には、父はいませんでした。
母と姉、兄、私の四人が、その言葉を受けました。
信じられませんでした。
ドラマを見ているようでした。
お父さんが死ぬ?
意味が分かりませんでした。
そこからの一ヶ月は、戦いでした。
正直、この時のことは、まだ語ることができません。
毎日が、戦いでした。
何度も、病院側とぶつかり、
導きたかった答えが、
お父さんを退院させること
でした。
そして、1月の終わりに、半分強引だったとは思いますが、
お父さんは、我が家に帰ってくることができました。
それからの、3ヶ月、いろいろな事がありましたが、
結論から言うと、
私たちは幸せでした。
本当に。
余命3ヶ月と診断されてから、4ヶ月、
父は、東京、信州(18切符で一人旅!)、和歌山と、
3回も旅行に行くことができ、
粘土で作った、焼き鳥を焼く姿の自分と母の人形、
足袋や、ミニチュアのお城や、詩や、小説・・・
本当にたくさんのものを残していきました。
写真の整理や、部屋の片付け、遺族年金の手続きまでも、
全て、自分の手で行っていました。
実は、退院する時に、
父は、自分の残された時間を、医者に聞いていたそうです。
そして、母と伊豆に旅行にいった時、
私たち子供も、それを知っていると言うことを、
母から聞いていたそうです。
本当に強い人です。
亡くなる直前まで、父は、
自分で運転し、大好きなお風呂屋さんに通い、
むやみに薬に頼らず(めちゃくちゃ痛かったはずですが)、
弱音すら吐きませんでした。
最期の瞬間、私は、父の手を握っていました。
最期が分かったから握ったのではなく、
握りたいと思ったから、その時、初めて握ったんです。
本当に不思議です。
大家族な我が屋ですが、最期に、父を看取れたのは、
示し合わせたように、長年一緒にいた、
祖母、母、姉、兄、私でした。
よく、「眠るように息を引き取った」と言う言葉を聞きますが、
まさにそうでした。
直前まで苦しんでいたのに、本当の最期の瞬間は、
微笑むように眠りながらいきました。
お父さん、お疲れ様。本当によく頑張ったね。
誰が言ったのか、その場の全員が言ったのか、
その瞬間の私たちの言葉は、一つでした。
長々、書きましたが、実際、まだ実感がわかないのが事実です。
当たり前すぎて、今更語るまでもないですが、
私は、杉山家が大好きです。愛してます。
この世で一番。
その中心にいたお父さん。
頑固で、誰よりもお母さんが好きで、家族を何がなんでも守る父。
本当に、男前でした。
未だに彼氏ができないのも、重度のファザコンだからでしょう。
(なんて言うと、「人のせいにするな」と父に怒られそうだな)
とにかく、家族全員・・・というより、一族全員、
お父さんが大好きです。
これは永遠に変わらない。
そして・・・お父さんが亡くなった次の日、
お父さんの部屋から、日記が発見されました。
2000年から、毎日書いていた日記。
医大に入院してからの、闘病生活も詳しく、
亡くなる直前まで書いていました。
小説を書くのも読むのも好きだった父、
最期の超大作です。
私たちは、いつか、これを本にするつもりです。
父の残したもの。
残したかったこと。
もしかしたら、いずれまたブログを再開するかもしれません。
父が、書くことで私たちに残してくれたものが、
あまりにも大きかった為、
私も、書くことをしていきたいと思いました。
そして、日記の他に、もう一つ、
手紙を残していきました。
祖父、叔母、叔父、私たち子供に、そして母に・・・。
この手紙を、最後に残しておきます。
(私たち子供たちへの手紙と、母への手紙を)
最初で最期の最高のラブレターです。
最期の手紙

